疲弊するマドンナたちの浄化と再生
1.オール富山の試み
『ニューマドンナ』(作・演出タニノクロウ)はタニノクロウ×オール富山の第3弾となる作品である。富山県出身で今や世界に活動の場を広げるタニノが、地元富山の人や場所を巻き込んだ地域密接型の演劇プロジェクトである。オール富山を掲げた前2作『ダークマスター2019 TOYAMA』『笑顔の砦’20 帰郷』が、既発表作品のリクリエーションであったのに対し、今作はタニノが「オール富山」のために書き下ろした新作である。2024年1月25日(木)から28日(日)まで全5回、オーバード・ホール中ホールで上演された。
私はこの舞台を初日と27日に2度観た。否、私の観劇体験はそれ以前に始まっていた。12月の土曜日に富山市の繁華街にあるバー「タウザー」に、3回出現したプレイベント「リアル『マドンナ』」の客として既に舞台の世界に足を踏み入れていたのだ。劇中と同じ「マドンナ」の看板が店前で点灯し、客に提供されるドリンクのコースターも実際に舞台で使用されるものと同じものが使われていた。このコースターは高岡市にある支援施設「志貴野苑」で制作された。バーでは日替わりで俳優がカウンタースタッフとして働き、タニノ自身も接客をしていた。歓談の中でこれから観る作品への期待が高まった。
さらに27日の夜公演の観劇後は富山ステーションシティとのコラボ企画として「TEJIKAEN富山駅ナカ店」で開催された公式オフ会に参加した。劇中に登場したおでん(店主が台本のレシピを再現して作った。大変好評で店のメニューになることも会の最後に発表された)も登場し、より作品の魅力を味わうことになった。かねがね観劇体験を共有したいと思いながら、誰と話すこともなく一人で悶々としながら帰路についていた私にとっては、是非とも参加したい企画であり、その期待を上回る体験となった。オフ会にはタニノが来ることは予告されていたものの、基本的には観客が感想を共有する会だと想像していた。実際は、タニノをはじめキャストやスタッフ、「オール富山」の関係者やもちろん他の観客たちが一緒になって食事を囲み、その光景は舞台と客席の垣根を取り払うだけでなく、舞台の「作り手」の概念を大きく拡張するものであった。つまり「オール富山」というコンセプトを目の当たりにしたわけだが、もちろんそこには県内外を越えた交流も生まれていた。
他にもこのプロジェクトの飲食コラボとして、劇場ロビーでも販売されていた「カンパーニュ」のパンや「野口屋」のどら焼き、また美術制作の作業場(旧呉羽幼稚園)の見学説明会、富山経済同友会との意見交換なども行われた。演劇を市街へ拓いていくこの魅力あるプロジェクトについて、劇場/演劇の公共性の観点から論じるのは私の手に余るので、本作が単に劇場空間という限られた場所でのみ展開されていたわけではないことを確認するに留め、次にタニノが女性を中心に描いたという舞台についてみていきたい。
2.疲弊する二人のマドンナ
舞台上には2つの部屋がある。客席から向かって左手側にはスナック「マドンナ」。どこか懐かしい雰囲気で、ママ桃子(島田桃依)とチーママ琴音(坂井初音)の周りには常連らしき女性客が集う。右手側はごみや酒瓶が散乱した一人暮らしの汚部屋。部屋の主の女性ユカ(瀬戸ゆりか)は配信を生業としている。この2つの部屋での出来事が基本的には別々に進行し、音や仕草が時に連動し、対照性と関連性の間を行き来しながら物語は進んでいく。舞台美術は、現在の日本でここまでのクオリティの美術を手掛けられる人はそういないとタニノも太鼓判を押す美術制作公募スタッフ32名によるものである(第1弾は26名、第2弾は20名)。細部まで作り込まれた舞台美術は、作品にリアリティを与えている。
桃子とユカは、アナログとデジタル、リアルとネット、女性常連客(男性も1人いる)と男性フォロワーという違いはあるものの、人を引きつける魅力のあるマドンナだ。しかし、自分に向けられた人々の欲望を充足させるマドンナたちのリアルの身体は、途方もなくすり減っている。明るく接客する桃子は膝が悪く足を引きずっているし、ネット上でキャラクターを演じ分けるユカは、オフラインになった途端に気だるく覇気がない。物語は、そうした彼女たちの日常のオン・オフを描きながら、最終的には「いつだって新しくなれる」という作品のテーマであるところの新しい局面へと向かう。
本作は仮構されたキャラクターとリアルな身体という両者のせめぎ合いを、2人の対照性において鮮やかに描き出しているのが特徴だ。
島田が演じる桃子は、素朴で温かみがあり、ちょっとおっとりしたママである。カスタム=整形の話題が出た際には、自分はそのままでよいと言うように、ありのままの飾らない人物である。スナックの雰囲気は、その店のママのキャラクターによって形成されるというが、スナック「マドンナ」は、桃子の「人柄」や価値観が染みついた場所であり、その居心地の良さを求め客が集ってくる。
ママの「人柄」に集うといえば耳障りはいいが、現実はそんなに甘いものではない。桃子は店を整え飲食を提供し、家におけるママ=母親のような役割をこなす。それだけでなく気配り、会話の調整といった感情労働もしている。おでんの出汁を煮干しから取る手間も惜しまず、酔っぱらった客には水を出し、店に置く花をいけるのも欠かさない。
実労働として店の切り盛りと細やかな気遣い。こうしたママの「人柄」の上にスナック「マドンナ」がある。桃子は地をゆくようでいて、それは並々ならぬ努力によって作り上げられたものなのだ。桃子を一番近くで見ている琴音が、ママのことをよくわからない人だというのもそれが決して素顔でないことを看破しているからであろう。こうしてスナックに集う客たちの欲望を充足させるために働く桃子のリアルな身体は、日々消耗している。
とはいえ桃子の「人柄」がある程度は素顔の延長線上にあるように思われる一方で、ユカは自分とはかけ離れた3つのキャラクターをネット世界で軽やかに移動する。戦闘ゲームに興じる粗暴な男言葉のユカ、うる星やつらのラムに扮装したあざと可愛いユカ、おっとりとした声でしゃべる癒し系Vチューバ―のユカ。いずれのユカも瀬戸は見事に魅力的に演じ分ける。
多くは男性かと思われるフォロワーを喜ばせるために、その欲望の先にキャラクターを仮構するが―後に彼女のリアルがネットで晒された時に、風呂を覗く行為にコメントがざわつき、彼らの欲望の在処が露呈する―、ユカもまた、他者の欲望を充足させる労働に、マドンナたることに疲れている。観客が知ることになる日常のユカは、部屋は荒れ、ヒモの彼氏に搾取され、消耗した身体を引きずっている。
3つのキャラクターを演じるユカは、すっぴん、化粧、そして最終的に身体を持たないVチューバ―へと変身し、リアルの身体からはどんどん離れていく。ところが一転、物語の終盤、ユカのリアルの身体が前景化する。彼氏がユカの不在時に汚部屋のリアルを配信し、そこに住所が映り込み居場所が特定されてしまう。その瞬間から、ユカが欲望を露わにしたフォロワーによって部屋に凸され襲われるのではないかという危うい緊張感が走る。ユカ不在の部屋の中に鮮明にユカの身体性が立ち上がってくるのだ。
作り上げられたキャラクターとはうらはらに、身体はリアルでたった一つだ。そこから逃げることはできない。知らず知らずのうちに蓄積されたマドンナたちの疲労は、限界を迎えている。だらだらと続くようにみえた日常に変化をもたらすのは、ささいなきっかけである。
別々に進行していた二つの部屋の物語が、物語の後半で交わる。ユカが配信部屋を出てスナックに来店する。普段は常連で賑わう店に異質な新参者。ここでママの日常に亀裂が入る。思い切って店に入ってきたユカの勇気に触発され、桃子はいよいよママの座を明け渡そうと気持ちに踏ん切りをつけ、堰を切ったようにおでんのレシピを琴音に伝承する。そして最終場ではママの割烹着を着た琴音、つまり『ニューマドンナ』が誕生し、まもなく店は琴音の色に染まっていくだろうことが示唆される。
他方ユカは、先述のように部屋を不在にしたわずかな間に、作り上げてきたネット世界での虚像を破壊され、住所を特定され、どこにも自分の居場所を失う。本名と実年齢を公表し―誤解を恐れずにいえば、アイドルではなくマドンナであるのは、ユカはアイドルという言葉からイメージされる「若い女性」ではないからだ―、彼女の日常であるところのネット世界に中指を突き立て決別する。スナックに入ったことがユカを破滅に追い込むが、それはひたすら消耗する日常からの解放と表裏である。
3.雪がもたらすもの
このように女性の強さや変化を描く本作はもちろん普遍性に開かれたものであるが、最後に敢えてローカルな視点を取り入れてみたい。桃子が痛む足を労りながら、窓外に雪がちらつく無人のスナックで、「明日もよろしくお願いします」と言ってお辞儀をするシーンがある。膝が大丈夫であって欲しいという願いであり、自分を奮い立たせる言葉であろう。虚空へ放たれていたようにみえるこの言葉は、舞台が富山であることを考えると、私は彼女の願いの先に立山の存在が自然と想起された。富山に移り住んで知ったことだが富山の人々の意識には、何かにつけ立山が守ってくれているという広義の立山信仰がある。四季の移ろいとともに姿を変え日常の風景としてそこにある雄大な立山は、人々の心の拠り所であり暮らしと密接に結びついている。
立山から流れる四つの河川は、水や電気を供給し人々の暮らしを支えながら富山湾へと流れ込む。そして日本海で発生した水蒸気は寒気に運ばれ立山にぶつかり、雪を降らす。雪は時に災害ともなりえるが、立山のもたらす雪は恵みでもある。
そして作中においても雪は重要だ。Vチューバ―のユカは、自分の居場所を窓の外に雪が降っていて日本海側であると語る(晒された住所は富山市である)。そして雪は泡立てた石鹸に喩えられ、世界を浄化する雪のイメージが提示される。それと連動するようにスナックで歌われるのは、桃子の十八番?UAの「プライベートサーファー」で、「ねぇ誰かこの世界を全部洗って」という歌詞が重ねられていく。舞台セットの二つの部屋の窓からは、降る雪が次第に強まっていくが、それは浄化を希求する彼女たちの心と共鳴している。
だからこそ降る雪をもろともせず、ユカは傘も持たずにその世界へと飛び出していく。その日は交通がマヒするほどの大雪で、実際に琴音は雪の影響で遅れて店に着いている。雪は日常を狂わせる(初日舞台では大雪の影響でパンフレットが届かないというハプニングがあったことをタニノが舞台挨拶で披露した)。この様子であればおそらく外は一面に雪が積もっているだろう。ふと見るとスナックからこぼれる温かい灯り。今まで入ったことのないスナックにユカを導くにはそれだけで十分だったのだろう。雪は日常をマヒさせ、浄化する。そして浄化のあとには再生がある。
※富山文学の会『群峰9号』(2024年3月刊行)掲載文を一部改変した。
久保陽子(富山高等専門学校 准教授)
様々なジャンルでご活躍の皆さまから応援メッセージをいただきました。